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北方領土はなぜ日本の領土なのか|千島列島の範囲とロシア実効支配を条約から読む

北方領土は日本固有の領土です。

ロシアが四島を実効支配している現実はありますが、それは北方四島がロシア領になったことを意味しません。
1855年の日魯通好条約で択捉島と得撫島の間に国境が定められ、
1875年に日本が樺太と交換した「千島列島」とは、得撫島から占守島までの18島として条約本文に列挙されているのです。

2026年8月、プーチン大統領が択捉島を訪問し、北方領土をめぐる議論が再び大きく動きました。テレビ番組で「ロシアが領有」と語られ、直後に「実効支配」と訂正された出来事も、言葉一つが歴史の見え方を変えることを示しています。

「千島列島」とは、そもそもどこからどこまでなのでしょうか。

この記事では、北方四島が日本の領土である根拠を、地図、条約、年表を行き来しながら、中学生にも分かる言葉でたどります。

この記事で先に見ておきたいこと

  • 北方領土は、歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島の四島です
  • 1855年の日魯通好条約で、日露国境は択捉島と得撫島の間に定められました
  • 1875年に交換された千島列島は、得撫島から占守島までの18島であり、北方四島は入っていません
  • ソ連は日ソ中立条約が有効な期間中に対日参戦し、その後、北方四島を占領しました
  • ロシアの実効支配は現実ですが、条約で定められた北方四島の帰属を消すものではありません
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目次

この記事のポイント

Q1. 北方領土はなぜ日本の領土なのですか?

北方領土は、1855年の日魯通好条約で日露国境が択捉島と得撫島の間に定められ、日本側に置かれた島々です。歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の四島は、この国境より日本側にあります。

Q2. 樺太と交換した千島列島はどこですか?

1875年の樺太千島交換条約で日本が譲り受けた千島列島は、占守島から得撫島までの18島です。北方四島は1855年から日本側にあり、この交換の対象となった島々には含まれません。

Q3. ロシアが実効支配しているならロシア領ではないのですか?

ロシアによる実効支配は、北方四島で行政を行い、現実に管理している状態を指します。しかし、実効支配と領有権は同じではなく、北方四島の帰属問題は日本とロシアの間で未解決です。

プーチン大統領の択捉島訪問が問いかけたこと

2026年8月13日、ロシアのプーチン大統領は北方領土の択捉島に足を踏み入れたのです。
日本政府は、北方四島は日本固有の領土であり、ロシア大統領の訪問は受け入れられないとして抗議しています。

ロシアの大統領が択捉島へ行くことは、単なる視察ではありません。
ロシアにとっては「自国の地域を訪れる」行動の誇示であり、国内外へ北方四島をロシア領として扱う姿勢を示す意味があったでしょう。

ただし、大統領が島を訪れ、ロシアが行政を行っていることと、北方四島の帰属が国際的に決着したことは別の問題です。日本とロシアの間では、北方四島の帰属問題を解決した平和条約はいまも結ばれていません。

「領有」と「実効支配」は違う

同月16日のTBS系「サンデーモーニング」では、加藤登紀子氏が北方領土について、「いろいろ調べた結果、ロシアが領有している」と発言しました。直後に出演アナウンサーが「正しくは実効支配」と訂正し、TBS広報も番組内で訂正したと説明しています。

けれど、この場面で考えたいのは、単に「領有」を「実効支配」へ言い換えれば済むのかという点です。

加藤氏は「いろいろ調べた」と言いました。その中には、国際条約を含め、ロシアが北方四島で行政を行い、住民がロシアの制度の下で暮らしている現実が入っていたのかもしれません。ロシアが役所を置き、学校や病院を運営し、島の生活を管理していることは事実です。

ロシアは、第二次世界大戦の結果として北方四島の帰属は決着したという立場を取っています。プーチン大統領の択捉島訪問も、その立場を行動で示したものでしょう。

しかし、北方領土を考えるとき、ロシアが現在行っている行政だけを見て結論を出すことはできません。日本とロシアの間には、北方四島をロシア領と最終的に定めたという平和条約は存在しないのです。

では、加藤氏の言ういろいろ調べた中に含まれるだろう「国際的な条約」には、どのようなものがあるでしょうか。

1855年の日魯通好条約では、日本とロシアは択捉島と得撫島の間に国境を定めています。歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は、その国境より日本側に置かれた島々です。

1875年の樺太千島交換条約も重要です。日本が樺太と引き換えにロシアから譲り受けた千島列島は、条約本文で得撫島から占守島までの18島として示されました。北方四島は、その交換対象に含まれていません。

さらに、1905年のポーツマス条約が扱ったのは南樺太です。北方四島を千島列島へ組み入れたり、ロシア領と定めたりする条項はありませんでした。

戦後のサンフランシスコ平和条約では、日本は千島列島を確かに放棄しました。
しかし、ソ連はこの条約に署名していません。ソ連はこの条約とは無関係です。
さらに条約本文も放棄した千島列島を、ソ連へ与えるなどとは定めていない。

そもそも前提として、歴史的な観点から観たら、「北方四島は放棄対象の千島列島に含まれない」のです。

1855年に日露間で定められた国境、1875年に条約本文で区切られた千島列島の範囲、そして北方四島の帰属を解決する平和条約がいまも存在しないこと、これらは外してはならない事実として、日本国民は知っておくべきでしょう。

北方領土問題は、今だれが島を実効支配しているかだけでは見えてこない。どの国が、どの条約で、どこまでを自国の領土として認めてきたのか。その約束をたどらなければ、問題の核心は見えないのです。

訪問が示したロシアの姿勢

大統領の択捉島訪問は、ロシアが四島を自国の行政区域として扱い、実効支配の現実を内外へ示す行為でした。島を訪れたという事実そのものは重く受け止める必要があります。

歴史は、「いま強い側が管理している」という一点だけで見てはいけない。武力による占領を既成事実に変えれば、条約で定めた国境も、そこに住んできた人々の故郷も、力の前では意味を失ってしまいます。

北方四島は1855年に日本側と定められた

北方領土問題の出発点は、第二次世界大戦末期ではありません。日本とロシアが平和的に国境を定めた、1855年の日魯通好条約です。

日魯通好条約の国境線

1855年、日本とロシアは日魯通好条約を結び、択捉島と得撫島の間を国境と定めました。当然ながら択捉島より南にある国後島、色丹島、歯舞群島を含む北方四島は、日本側です。

北方四島は、日露戦争で日本が奪い取った島ではないという点が重要です。
戦争の勝敗ではなく、江戸時代末期に日露両国が署名した条約によって、日本側と確認された島々なのです。

北方四島は交換で得た島ではない

北方四島は、1875年の樺太千島交換条約で初めて日本領になったわけではない、という点も重要です。
繰り返しますが、1875年より20年前の1855年に、すでに択捉島と得撫島の間へ国境が引かれていたのです。

ここを混同すると、「日本は樺太と引き換えに北方四島を得た」と誤解してしまいます。実際に交換されたのは、北方四島より北に連なる、得撫島から占守島までの島々です。

条約は年号を覚えるためだけのものではありません。どこに国境を引き、何を互いの領土として認めたのか。その約束を残した記録です。長く社会科に関わってきたなおじには、まずこの出発点を子どもたちへ手渡したいと思うのです。

👉関連記事:日魯通好条約で定められた択捉島・得撫島間の国境(執筆後リンク予定)

中学校の教科書では北方領土をどう教えるか

中学校の教科書では北方領土をどう教えるか

北方領土を考えるうえで最も大切なのは、1875年の樺太千島交換条約が「千島列島」をどこからどこまでとして扱ったかです。

樺太と引き換えに得た18島

1875年、日本は樺太全島に対する権利をロシアへ譲り渡し、その代わりに千島列島を譲り受けました。外務省の説明と条約資料によれば、その千島列島は、占守島から得撫島までの18島です。

島の並びを南から北へ言えば、得撫島から占守島までとなります。得撫島はウルップ島、占守島はシュムシュ島とも表記されます。

条約は島の名を一つずつ列挙した

この条約は、「千島列島」というあいまいな言葉だけを置いたのではないんです。ロシアから日本へ譲渡する島を、最北の占守島から第18番目の得撫島まで、個別に列挙しているのです。

ここに、国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島の名はありません。なぜなら、北方四島は交換対象ではなく、1855年からすでに日本側にあったからです。

北方四島が入らない理由

内閣官房は、樺太千島交換条約で列挙された千島列島は、最北のシュムシュ島から最南のウルップ島までの18島であり、そこに北方四島は含まれていないと説明するのです。

区分島の範囲いつ日本側と定められたか1875年の交換対象か
北方四島歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島1855年の日魯通好条約対象ではない
条約上の千島列島得撫島から占守島までの18島1875年の樺太千島交換条約日本がロシアから譲り受けた
南樺太北緯50度以南の樺太1905年のポーツマス条約千島列島とは別の対象

ロシアが北方四島を「南クリル」と呼び、戦後に千島列島の一部として扱う主張に対し、日露両国が近代に結んだ条約は、北方四島と交換対象の千島列島を明確に分けていたのです。

👉関連記事:樺太千島交換条約で列挙された得撫島から占守島までの18島(執筆後リンク予定)

ポーツマス条約の時点でも千島列島の範囲は変わらない

ポーツマス条約も、北方領土の問題と無関係な条約ではありません。
大切なのは、1905年の時点で「千島列島」の範囲が北方四島まで広がったのかを確かめることです。

ポーツマス条約は日露間で最後に領土を確定した条約

1905年のポーツマス条約は、日露戦争を終結させた、日本とロシアの講和条約です。この条約で日本は、ロシアから北緯50度以南の南樺太を譲り受けました。

ただし、北方領土を考えるうえで大切なのは、南樺太だけではありません。ポーツマス条約は、日本とロシアが直接結んだ講和条約として、1905年時点の領土関係を確認したものです。

その時点で、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島は日本側にありました。択捉島と得撫島の間の国境は、1855年の日魯通好条約で定められています。さらに、1875年の樺太千島交換条約で日本が得た千島列島は、得撫島から占守島までの18島でした。

つまり、1905年のポーツマス条約が結ばれた時点でも、北方四島は日本側にあり、千島列島とは別に扱われていたのです。ポーツマス条約は南樺太を日本へ加えましたが、北方四島をロシア領に変えたり、千島列島へ組み入れたりしたわけではありません。内閣官房の解説も、ポーツマス条約によって南樺太が日本へ割譲された一方、千島列島の法的地位は変更されなかったと整理しています。

その後、1941年の日ソ中立条約は、日本とソ連が戦争をしないと約束した条約であり、国境を変更する条約ではありませんでした。ところがソ連は1945年8月、有効期間中の日ソ中立条約に反して対日参戦し、北方四島を占領しました。

ここで大切なのは、占領が始まったことと、ロシア領になる条約が結ばれたことは別だという点です。1945年以後も、日本とソ連、さらにロシアの間で、北方四島をロシア領と定める平和条約は結ばれていません。

ロシアは「第二次世界大戦の結果、四島の帰属は決着した」と主張します。しかし、日本とロシアが直接結んだ条約をたどると、1855年に北方四島は日本側に置かれ、1875年の交換対象となった千島列島にも入らず、1905年の講和条約でもその扱いは変わっていないのです。

だだから日本は、北方四島を歴史的にも国際法上も日本固有の領土だと主張しています。ロシアによる実効支配は、1945年にソ連が北方四島を占領して以来続く、不法な占拠です。

北方四島を千島列島へ入れる条項はない

ポーツマス条約には、北方四島を「千島列島」に組み入れる条項はありません。1875年に条約本文で占守島から得撫島までと列挙された範囲が、1905年に北方四島まで広がったと読める根拠も示されていません。

だからこそ、サンフランシスコ平和条約の「千島列島」を考えるときも、戦後だけを見てはいけないのです。1855年と1875年に日露両国が何を「国境」とし、何を「千島列島」として扱ったのかへ戻る必要があるのです。

南樺太と千島列島を混ぜない

南樺太は1905年のポーツマス条約で日本が得た地域です。一方、得撫島から占守島までの18島は1875年の樺太千島交換条約で日本が得た千島列島でした。

地図の上では隣り合って見えても、どの条約で、どの範囲を、どのような経緯で扱ったかは違います。条約名と対象地域を混ぜてしまうと、北方四島の位置も見失います。

北方領土問題はどこから始まったのか

日本側が条約と国際法の積み重ねから北方四島の帰属を考えるのに対し、ロシア側は、第二次世界大戦と戦後の現状を出発点にしているように見えます。

ロシアは、北方四島を第二次世界大戦の結果として得た領土だと位置付けています。その前提には、ソ連が1945年8月に対日参戦し、その後、北方四島を占領して現在まで実効支配を続けてきたという事実があります。

しかし日本側から見れば、戦争末期に占領されたという事実だけで、すでに条約で定められていた国境や領土の帰属が書き換わるわけではありません。しかも、ソ連の対日参戦は日ソ中立条約が有効な期間中に始まりました。

日ソ中立条約は1946年4月まで有効だった

1941年4月、日本とソ連は日ソ中立条約を結びました。条約の有効期間は5年であり、1946年4月25日まで効力が続く定めでした。

確かに1945年4月、ソ連は条約を延長しないと日本へ通告しています。しかし、不延長の通告は、その日から条約を失効させるものではありません。条約は定められた期間が終わる1946年4月まで有効であり、1945年8月の時点でも日本とソ連の間には中立条約がありました。

1945年8月9日の対日参戦

ソ連は1945年8月9日、条約を破り日本への参戦を始めました。当時、日ソ中立条約はまだ有効でした。

戦争が終わりに近づいていたことは、当然 条約の効力を消す理由にはなりません。北方領土を考えるときに大切なのは、ソ連が対日参戦した時点で、日本とソ連の間には「互いに中立を守る」という約束が残っていたことです。

終戦過程で進められた占領

日本は1945年8月14日、ポツダム宣言を受諾する意思を連合国へ伝えました。翌15日には玉音放送が行われ、日本国民へ終戦が伝えられました。

その後もソ連軍は進軍を続け、8月下旬から9月にかけて北方四島へ上陸し、占領を進めたのです。9月2日には日本が降伏文書へ署名しましたが、それを理由に、8月9日に始まったソ連の対日参戦や、その後の北方四島占領までを正当化しようとしているのです。

こうしてロシアは、戦争に勝利した結果として北方四島を得たという認識に立っています。しかし、日ソ中立条約が有効な間に始まった参戦と占領です。
北方四島をロシア領と定める日露間の平和条約は、当然ないのです。
あるとしたら、1905年のポーツマス条約だけなのです。

👉関連記事:日ソ中立条約と1945年8月9日のソ連対日参戦(記事執筆後リンク予定)
👉関連記事:1945年8月15日から9月までの北方四島占領(記事執筆後リンク予定)

サンフランシスコ平和条約で何を放棄したのか

1951年のサンフランシスコ平和条約を読むとき、最も重要なのは、日本が放棄した「千島列島」に北方四島が含まれるのかという点です。

日本が放棄した千島列島と南樺太

日本はサンフランシスコ平和条約で、千島列島と、ポーツマス条約の結果として得た南樺太への権利を放棄しました。

ここで「千島列島」という言葉だけを見て、北方四島まで入ると決めつけることはできません。なぜなら、日露両国が1855年と1875年に定めた範囲では、北方四島と、得撫島から占守島までの千島列島は区別されていたからです。

北方四島は放棄した千島列島に含まれない

日本は、北方四島をサンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島に含めていません。日露間で1855年に国境が択捉島と得撫島の間に定められ、1875年の交換条約で千島列島が得撫島から占守島までの18島として扱われたからです。

この主張は、戦後になって都合よく線を引いたものではないという点が重要です。日露両国が戦前に締結した条約の積み重ねに基づくものです。

ソ連は条約に署名していない

しかも、ソ連はサンフランシスコ平和条約に署名していません。また、同条約には、日本が放棄した千島列島をソ連へ帰属させるという条文もありません。

ロシアは北方四島を「第二次世界大戦の結果」として自国領だと主張します。しかし、戦争の結果という言葉だけで、1855年の国境、1875年に列挙された18島、1945年の条約違反と占領という経緯を消すことはできないでしょう。

👉関連記事:サンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島の範囲記事執筆後リンク予定)

北方領土を条約・地図・年表で整理する

北方領土を理解するには、島の名前だけでなく、「いつ、どの条約が、どの地域を扱ったのか」を順に追うことが欠かせません。ここで一度、条約と出来事を並べてみましょう。

条約・出来事定められたこと・起きたこと北方四島を考える意味
1855年日魯通好条約日露国境を択捉島と得撫島の間に定めた北方四島は日本側に置かれた
1875年樺太千島交換条約日本は樺太全島に関する権利を譲り、占守島から得撫島までの18島を譲り受けた北方四島は交換対象の千島列島に含まれない
1905年ポーツマス条約日露戦争後、日本は北緯50度以南の南樺太を得た北方四島を千島列島へ組み入れる変更はない
1941年日ソ中立条約日本とソ連は5年間の中立を約束した1945年8月も条約は有効期間中だった
1945年8月9日ソ連の対日参戦ソ連が日本への攻撃を開始した日ソ中立条約に反する対日参戦だった
1945年8月〜9月北方四島の占領ソ連軍が北方四島へ上陸し、占領を進めた占領の開始であり、北方四島の帰属が決着したことにはならない
1951年サンフランシスコ平和条約日本は千島列島と南樺太への権利を放棄した北方四島は放棄した千島列島に含まれず、条約はソ連への帰属も定めていない

1855年、1875年、1905年、1941年、1945年、1951年。年号が並ぶと遠い歴史のように見えるかもしれません。

けれど、一つひとつは「国境をどこに置くか」「何を交換するか」「約束を守るか」「占領を既成事実にするのか」という問いです。地図の小さな島々には、国と国との約束、島で生きた人々の暮らし、そして戦後80年を超えても終わらない時間が重なっています。

北方領土を次の世代へどう伝えるか

北方領土は、日本固有の領土です。ロシアが行政を行い、住民が暮らしているという現実を見ても、その現実だけで歴史的・国際法上の帰属まで変わるわけではありません。

条約を暗記で終わらせない

中学校で北方領土を学ぶとき、四島の名前や条約名を覚えるだけでは足らないのです。なぜ択捉島と得撫島の間に国境が引かれたのか。なぜ1875年に交換された千島列島は得撫島から占守島までなのか。そこまで考えて初めて、「北方四島はなぜ日本の領土なのか」という問いに自分の言葉で答えられるようになります。

ニュースで「ロシア領」と聞いたときも、言葉をそのまま受け取らず、「これは現実の統治を言っているのか。それとも領有権まで決着したと言っているのか」と立ち止まってほしいのです。その一拍が、歴史を力のある側の物語だけにしないための大切な目になります。

島は元島民の故郷だった

歯舞、色丹、国後、択捉は、国境線の記号ではない。戦前まで日本人が暮らし、働き、家族を育て、墓を守ってきた故郷です。

元島民と家族が故郷を思う時間を、地図から消してはならないと思います。返還を求める理由は、国の面積を増やすためではない。条約で定めた国境を守り、そこにあった暮らしと記憶を次の世代へ渡すためです。

なおじより

なおじが、元ではありますが教員として、日本中の中学生に知ってほしい内容をまとめました。

日本人として知っておくべき、北方領土とは何か。何故、日本の領土と言えるのか。
それをきちっと知り、自分の言葉として表現できるようになって欲しいと願っています。

よくある質問

北方領土は、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島です。1855年の日魯通好条約で定められた択捉島と得撫島の間の国境より、日本側にあります。

1875年の樺太千島交換条約で、日本がロシアから譲り受けた千島列島です。条約本文は、占守島から得撫島までの18島を列挙しており、北方四島は含まれていません。

ポーツマス条約が扱ったのは、日露戦争後の南樺太です。北方四島を千島列島に組み入れる条項はありません。

ロシアが現実に行政を行い、公共サービスを担い、島を管理している状態です。しかし、実効支配は北方四島の帰属問題が解決したことを意味しません。

北方四島の帰属問題について、両国が合意していないためです。日本は、四島の帰属問題を解決して平和条約を結ぶ方針を掲げています。

筆者紹介|なおじ

公立小・中学校で社会科を中心に約35年教え、校長を11年、指導主事を5年務めています。

全国中学校社会科教育研究会元理事、茨城県社会科研究部長(元)として、地図・条約・年表を往復しながら、結論と根拠を結び付ける授業を大切にしてきました。

北方領土では、1855年の国境、1875年に列挙された18島、1945年の対日参戦と占領をつなげて読むことが欠かせません。ニュースの強い言葉に流されず、子どもたちが日本の領土と歴史を自分の言葉で語れるよう、社会のしくみと人の生き方をドラマ芸能政治歴史スポーツ学び書評の8つのブログで発信しています。

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